お疲れさま

最近、それなりの疲労感というか、なんとなく活動した感というか、そんなものと一緒に生活していた。

たぶん、今週に関してはほぼ毎日ヨガ通って、試験の勉強して、それが二週間前までは演奏会前の準備してたものだからずっと気が抜けないような、そんな感じで来ていたからだと思う。

(いや、そうはいっても実家帰ったり、SLAM DUNK読んだりして息抜きしてましたが。

活動の刻みかたが強めだったということかな。あと移動が多かった。)

感覚的には、海外から帰って暑くて、ようやく落ち着いたかな?と思った頃から止まらず来ていたような感じ。

その間、仕事でプレッシャーを感じる場面もそれなりにあって、気を遣うこともあって、ちょっとライフスタイルがかわって(おそらくいい方向に)、その結果稼働率も高かった。

 

もともと、なんか「疲れが残ってるのはいけない」って思うタイプだ。

小学校を卒業する前、みんなのうたで「おつかれさん」という曲があった。主にあれのせいだと思うんだけど、疲れているのはいいことではなくて、何かに負けているようで…と思いがちだった。もっとも、あの曲はそんなうすっぺらいものではないとわかっているつもりだけれど。

でも、「疲れている」って、この場合はちゃんと活動しているってことなんじゃないかなって、そう思った。

負けたこともあったけれど、基本的には主体性をもって動きまわった結果ついてきた疲労感なら、むしろ中高大学生時代にできなかったことだな、って。

 

試験には負けたけれど、不思議な余韻をノコシツツ、この期間をいったんしめようと思う。

キラキラの素

めったにない都内への出張、都合よく夕方までかかったので、慣れない乗り換えに戸惑いながら天王洲アイルへ向かった。

ミュージカル「アメリ」の当日券を買った。

 

「アメリ」という映画があったことは知っていた。それ自体が魔法の呪文みたいで、あのビジュアル(蠱惑的なチャーミングな目線でこちらを見るおかっぱ頭の女の子)とともに胸に引っ掛かっていたんだろう。

 

だから、それを渡辺麻友さんがミュージカル女優としての初舞台で演じると知ってときめいた。

麻友さんには、当時の私の目を離させてくれなかった何かがあった。舞台で自身の目に映すことで、その"何か"がわかりはしないか、と思ったのだ。

その"何か"は、その頃の私にとってはすごくドンピシャで、比較する対象ではなくて、おそらく私(少なくとも当時は)にとって無条件的に好ましいと感じるものーーだったはず。

アイドル時代は私にとって身近なところにはいなかったから、同じ空間で、この目で、しかも彼女にとって本気の舞台を観られるのは魅力的だと思った。

 

そうはいっても、ミュージカルとて別に私の馴染んだグラウンドではない。しかも、(あと一押し、がなかなか入らなかったため)当日券を買わなくてはならない時期になってきていて、そのこともハードルを上げていた。

だから、こう思ったのだ。「たまたまタイミングよく夕方都内にいられたら、行ってみてもいいな」と。

この日は、半ばわかっていたことだけれど、まさにそのタイミングだった。

 

あてがわれた席はS席、4列33番。

 

想像以上に舞台の目の前だったが、開演してまゆゆが登場してくると、自分の目の前4mに立っていることにびっくりする。

 

キラキラしている。

涙がにじんだ。

 

違和感はまるでなかった。作り込んでいた。メインテーマのさわやかな不安定さはなんだろう。ずっと聴いていたい。美しい。

本当にこの役にかけて、大切に作ったんだなとわかった。これからの彼女に幸せが訪れますように。

充ちる一日

5月22日火曜日、快晴。

今日は活動した。出勤するのと同じころに家から出て、カフェで朝ごはんを食べたら勉強時間、それからヨガでだらだら(文字どおり)汗をかいて、いったん家でシャワーを浴びながら洗濯を済ませ、楽器を背負ってカラオケへ。久しぶりにじっくり楽器。これらの合間にヤボ用をいくつか済ませ、帰ったら最後にお風呂にまで入って今に至る。

 

とはいえ、今日はレッスンの序盤から、少しもうろうとするような感覚があった。

直前までのカフェで冷えて、体感の差にまいったのか? 昨夜からあまり栄養のあるものを食べていなかったから、そのせいか? 数日心配事が続いて疲れていたのか? いや、いつもと違うスペースで、空調(熱風)がじかに当たって調子を崩したのか。

…どれも正解のような気がする。自分の無頓着さにやや後悔しつつ、もしものときには自分で部屋を出なければと緊張していたけれど、そのうちに立位のポーズは終わって、なんとかなりそうだったので続けた。

こういう感覚をみんなが持っていそうには見えなかったし、そもそも今までの数回では大丈夫だったので、やはり自分の不調だったのだろう。「自分と向き合う」というのは、言葉で言うのは簡単だけれど、本当に大事なことだと思った。

 

 カラオケに行って声を出して、今までまったくできなかった腹式呼吸ができるようになっていて驚いた。これもヨガの効果と言っていいんだろう。

雨のカーテン

5月9日水曜日、雨。

昨晩うっかり遅くまで目を覚ましていたから、朝が忙しくなってしまった。本降りの雨の中、電車に乗って海のそばの映画館へ。

 

ちはやふる」の完結編を観るのは今日だと決めていた。

絶対観るつもりだったのに、ここまでずるずるかかってしまったのはなぜだろう。おそらくなかなか合わなかったタイミングのせいでもあるけど、キラキラしたそのエネルギーを受けとるのに用意がいったという気もしている。絶対にほしかったものだというのに、不思議。

 

広瀬すずの、世界をつくり上げるような圧巻の魅せ方は本当になんなんだろう。もうずっと見ていたいと思わせる。この作品は広瀬すずに演じてもらって幸せ、広瀬すずもこの作品を演じることができて幸せ、そう感じた。

 

実は、広瀬すずのほかにずっと惹き付けられたのが、優希美青だ。

ずっとキラキラしていた。よくこの世界に、違和感なく、しかし存在感を発揮して入ってきたと思う。いやな感じがまったくしなかった。

目で魅せるオーラが、「あまちゃん」の頃と全然ちがう。こんなに光る存在になっているとは思いもしなかった。いやなところをいやな感じに演じようとしないで、ただひたすらまっすぐなところを受け止めて演じたのがよかった。

 

映画は、よくあの膨大なエピソードをひとつにまとめたな、という感じ。冗長になりかねないところは潔く切り、ディテールにもこだわって魅せきった。

千早が全国大会の一次予選で太一に電話をかけるところ、あんな演技できるものだろうか。「こんなところで終われない」とスイッチが入るところ。部員を見送った部室で、思い出のものを眺めながら太一が来たような気がして涙するところ。奏と屋上で、「この宝物のような時間がずっと続けばいいと思うけど」と話をするところ。太一が帰ってきた瞬間、襷を渡すとき、役者が魅せるプロだとしたら、広瀬すずは完璧にプロだと思った。

 

 

高校生の頃の、「いつもの場所」は、そのときには私たちのための場所だった。その二年間だけはたしかに、私たちのためにその場所はあってくれたのだ。暗い階段下に並べられたメトロノーム、謎の音が鳴る廊下、もう戻ることはなくても、私はたしかに、それらを宝物のように感じていた。最初は同じところにあったものが、離れていくやるせなさもいたいほど感じてきた。あのときがあって、今の私がある。これはもう絶対にそうだ。涙を流して、ヒリヒリして、それらを通り抜けて今笑っていられる。これは、自分で自覚しているつもりになっていたよりも、もっともっと、もっと尊いことだったのではないか。

 

もっとーーもっともっとできるだろう。そう思った。

 

ひみつの営み

5月7日月曜日、たまに光ののぞく曇り。

今日はついに始めたヨガレッスンの初日だ。体験レッスンの方が勇気はいったけれど、それでもまだ二度目。ハードルはまだまだ高い。

 

何がきっかけだっただろう。職場に向かうにも家に帰るにも必ず通る場所を少し入ったところに、ヨガスタジオができたと知った。

自分でも、どうしてこんなに引っかかるのか考えてみていたが、

体を動かしたかった→Yes

ストレス解消によいと聞いて→Yes

運動不足をさすがに気にして→Yes

 

もちろんどれもYesだった。

 

だけど、人に話さない(そもそも、始めることさえほぼ誰も知らない)その奥のところに、心が動いた本当の理由があるのではないか、という気がする。

 

それは、私が29歳を迎えているということが大きく関係している。

これまでの人生で運動という運動をしてこなかった、運動はことごとく苦手な私だが、それでも自分の体のポテンシャルーいわば可塑性を感じることはあった。

それはなにも、運動神経が良い劣るという話では全くなくて、

「これは育てたら伸びるのではないか」

という、ほのかな感覚だ。

 

体育の授業で、ごくピンポイントで周囲の中でも綺麗にこなせる動作があったとき。

同じような立ち位置の周囲より、ほんの少し丈夫に動けているように感じたとき。

社会人になってからの体力を問う活動で、思いがけず周囲から抜ける形で耐えられたとき。

 

いずれもふとしたときに、「心配していたよりできた」という程度のことに違いない。

だが、普通程度にできるタイミングがあったとしたら、それは自分にとって大きな発見だった。それくらい根本的に、自分の体力(厳密に運動能力)にはまるで自信がなかったのだ。

 

何をやるにしても人より時間がかかる私も、大人になって、自分なりに何かを身につける取り組み方を編み出して使えるようにしたい気持ちはあった。

少なくとも、まったくできなかった学生時代と違うのは、「ちゃんと見て、真似する」という方法を試すようになったことだった。体のしなやかさをものにする(とイメージする)ヨガをすることで、果たして自分のやり方が通用するのか試したかったし、もしうまくいかないのなら、試行錯誤してアップグレードした方法論を体に入れたいと思ったのだ。

そして、体を育てる実感をもつのに、自分にとっては今がかなり適したタイミングだと直感した。説明しきれないが、ひらめきに近いような形で、逃したくない、と思ったのだ。あれだけ怖じ気づきやすいのにどうにかしがみついて始めたのは、このタイミングに後押しされるところが大きい。

 

自分を育てたかった。そして可塑性を見つけたかった。それには今のタイミングがジャストミートしていて、私にはたまたまそれが、29歳の今だったのだろう。という感じ。

 

 

キーボードを持たない私は、この記録をスマートフォンで書くことにした。思考のスピードがゆっくりになるけど、それもいいかなぁ、という程度に。

 

夕方につめたい雨がすべり落ちてきて、やはりこの銀色の暗さが好もしいなぁと思って、そっと家に帰っては滑り込むのだった。